【1】巧遅拙速

 あくアク流の考えの一つに“巧遅拙速”というものがあります。
 今回は、この出典などをご紹介します。

「文章軌範」の“拙速”

 中国南宋の謝枋得(しゃぼうとく)の「文章軌範(ぶんしょうきはん)」という書物に「巧遅(こうち)は拙速 (せっそく)に如(し)かず」という言葉があります。(「巧遅拙速」という四字熟語にもなっています)

 この謝枋得という人、南宋末期の学者兼官僚なのですが、元との戦いに敗れ南宋が滅んだ後、断食して自殺するという硬骨漢でした。

 しかし「文章軌範」自体は、これまたうって変わって当時の官吏登用試験である“科挙(かきょ)”の受験参考書(模範文例集)というべきもので、主に唐・宋の“古文”の中から科挙の“作詩作文”科目の模範となるべきものを選んで載せています。

 余談ですが、この「文章軌範」全七巻の巻名は「侯字集」「王字集」などという「○字集」となっています。 この○をつなげると「侯王将相、種あらんや。[侯王将相有種乎]」、つまり「どんな高い身分でも、生まれつき決定しているわけではない、人間の努力によって到達するのだ」となり、(秦王朝滅亡の契機となった陳勝・呉広の乱での)有名なセリフ「王侯将相、なんぞ種あらんや。[王侯将相寧有(レ)種乎]」になります。「身分の低い者でも、努力して科挙を通過できれば、道は開けるぞ」という、謝枋得から受験生へのメッセージかもしれません。

 閑話休題。この「巧遅は拙速に如かず」という部分、実はこの“古文”ではなく、次の様に第五巻(有事集) の冒頭に謝枋得自身が書いた“巻”への説明文(これを“小序”といっていますが)に書かれているものです。

■文章軌範 補注巻第五[有字集]

 此(こ)の集の文章は皆(みな)、謹厳(きんげん)簡潔(かんけつ)の文なり。
 [此集皆謹厳簡潔之文。]
 場屋(じょうおく)(試験場)中には、日晷(にっき)(時間)に限り有り、巧遅(なる者)は拙速に如かず。
 [場屋中、日晷有限、巧遅者不如(二)拙速(一)。]
 論策(ろんさく)の結尾(けつび)に、略(ほ)ぼ、この法度を用いば、主司(しゅし)(試験管)もまた必ず異人(いじん)(傑出した人物)をもってこれを待せん。
 [論策結尾、略用(二)此法(一)。主司亦必以(二)異人(一)(レ)之。]

 要は「(試験時間は限られているのだから)巧妙な詩文を作ろうと時間をかけることは、拙劣なものであっても迅速にできることにはおよばない」ということなのですが、この部分、現代の受験にも通用するだけでなく、業務システムツール作りにも当てはまります。

 大規模な業務システム開発においては「すべての仕様を精緻に検討・決定し、その後、一気にシステムを開発する」という、長期間を要する手法が主流ですが、こと小規模な業務システムツール作りでは「あぁでもな い、こうでもない」と机上で鬱々と考えているよりは、さっさと“ある程度の出来のもの”を業務担当者が作ってしまった方が良いのです。

 そして、実際にそのツールを使う中で「こうすれば良かった。こうすれば、もっと良くなる」というアイディアが浮かんできて、さらなる改良・改善をしていくことを、あくアク流は目指しています。

「孫子」の“拙速”

 なお、巷の名言集などには、四字熟語“巧遅拙速”の出典として「孫子」の次の下りを紹介しているものもあります。

■孫子 作戦篇

(…前略…)

 其(そ)の戦いを用いるや、勝つも久しければ、則(すなわ)ち兵を鈍らし鋭を挫(くじ)く。
 [其用(レ)戦也、勝久、則鈍(レ)兵挫(レ)鋭。]
 城を攻むれば、則ち力屈す。
 [攻(レ)城、則力屈。]
 久しく師を暴(さら)せば、則ち国用足らず。
 [久暴(レ)師、則国用不(レ)足。]
 夫(そ)れ兵を鈍らし鋭を挫き、力を屈し貨を殫(つく)さば、則ち諸侯、其の弊に乗じて起らん。
 [夫鈍(レ)兵挫(レ)鋭、屈力殫貨、則諸侯乗其弊而起。]
 智者有りと雖(いえど)も、其の後を善くする能(あた)わず。
 [雖(レ)(二)智者(一)、不(レ)能善(二)其後(一)矣。]
 故に兵は拙速を聞く。未だ巧の久しきを睹(み)ざるなり。
 [故兵聞(二)拙速(一)。未(レ)(二)巧之久(一)也。]
 夫れ兵久しうして国に利ある者、未だ之(これ)有らざるなり。
 [夫兵久而国利者、未之有也。]

(…後略…)

 (十万の大軍が)敵と戦って勝つとしても、それが持久戦であれば、兵力を鈍らせ盛んな士気を挫けさせる。
 敵の城を攻めると、戦闘力は尽きてしまう。
 久しい間大軍を戦場にさらすと、国家の費用は足りなくなる。
 このように兵力を鈍らせ、盛んな士気を挫けさせ、戦闘力が尽き果て、財貨を窮乏させるなら、諸国の君主はその疲弊につけこんで、軍を起こして攻めてくる。
 たとえ知恵ある者がいるとしても、その事後の処理をうまく行うことはできない。
 そういう訳で(私は)「戦争は、戦術が拙くとも速やかに勝って、戦争を終結させる(方が良い)」ということを(古人の知恵として)聞いている。
 今まで、その戦術が巧みで長い戦争を続けたという例を見たことがない。
 持久戦となって国家に利益をもたらしたということは、今までになかったことである。

 ここには“拙速”の文字はあっても“巧遅”の文字はありませんから、“巧遅拙速の出典”では無いと考えていますが、「兵は拙速を聞く」の出典ではあります。

 さて、「巧遅は拙速に如かず」は“(試験時間という)時間的な制約”から拙速を薦めていますが、一方 「兵は拙速を聞く」では“(軍の士気や国家の経済力といった)資源的な制約”から拙速を薦めています。

 大規模な業務システム開発においては、前述した様に長期間を要します。このため、開発人員・機器を含め、必要となる“資源”への投資は膨大なものになります。そして、これは(孫子でいう“十万の大軍”と同様に)動き出したら、よほどのことが無い限り止まりません。止められたとしても、そこに留まる限り、留まるための出費が必要になるのです。

 これに対して、あくアク流が目指す(小規模な)業務システムツール作りでは、「いかにお金をかけずに、短期間に作成するか」を主眼に置いています。

引用・参考文献

 本稿の引用・参考文献は、次のものです。

  • 「文章軌範(正篇)」新釈漢文大系 前野直彬著 明治書院
  • 「史記(世家 下)」新釈漢文大系 吉田賢抗著 明治書院(※内「陳渉世家(第十八)」より引用)
  • 「孫子 呉子」新釈漢文大系 天野鎮雄著 明治書院