【3】第一章 それは休憩室から始まった
「今ごろみんな楽しくやっているんだろうな。こっちはそれどころじゃないっていうのに」
中堅会社X社の営業部第二課で、新入社員の山上君はがっくりと肩を落とした。
主要な得意先を招待した“X社創立三十周年記念式典”に営業部全員が出払っており、山上君だけが“お留守番”となっている。
「やっぱり、いくらなんでも無理だよ」
とボヤキともグチともつかない言葉と共に、彼は、また大きなため息をついた。
山上君の憂鬱は、元々は、彼の上司である木下課長のこんな指示から始まったのである。
(その数週間前)
「おい、山上君」
「はい、何でしょう。課長」
珍しく木下課長に呼ばれた山上君は、慌てて課長席にやってきた。
「君も知っている通り、我々営業の仕事は名刺交換から始まる。ご挨拶をしたお客様の名刺にある情報をしっかり管理しながら、その後のお客様とのやり取りも記録し、次の商談に繋げていく。こういったことは地味ではあるが、非常に重要な仕事だ。分かるな」
「はい、分かります」
「そこでだ。第二課にある顧客名簿や営業日報などの情報管理を、君にやってもらおうと思っているのだけれど、どうだろうか」
(おっ、やっと僕にも一人前の仕事が舞い込んできたぞ)と心の中で小躍りしながらも、彼は殊勝な顔で言った。
「はい、私で良ければ、喜んでやらせていただきます」
「そうか、そうか、ありがとう。では、早速、前任者の小池さんから引き継いでおいてくれ」
「はい、分かりました」
と彼は課長に深々とお辞儀をした。
「小池さん、引継ぎ、よろしくお願いします」
山上君のやる気満々の声が、会議室の中で響いた。
対する派遣社員の小池嬢は、少々面食らったかの様に彼を見返した。
「山上さん、木下さんからどう聞いたのかは知らないけれど、そんなに気合いを入れなくても良いですよ。では、説明しますね」
と、山の様なファイルを目の前に、彼女はパソコンを開いて説明を始めた。
「小池さん、これって全部手作業なんですか」
少々呆然としながら、山上君が小池さんに聞き返した。
「その通りよ。第二課の人達が持ってきた名刺や営業日報をいろんなExcelシートに入力するのも手作業。彼等から頼まれればその時々で、色んなExcelシートからデータを集めてきて別のExcelシートやWord文書を作成するのも手作業。み~んな、そうよ」
「でも、これって大変な作業じゃないですか。こんなのって、コンピューター・システムか何かを作ってやれば効率化できるんじゃないんですか?」
「うん、私も前に木下さんに同じ様なことを言ったのだけれど、『金が無い』の一言で駄目になっちゃった。今回私がこことの派遣契約をやめるのも、あまりに手作業ばかりで嫌になっちゃったからなんだけれどね」
(うあぁ! これって、課長に体良く押し付けられた様なもんじゃないか)
やっと現実が理解できた彼の大きなため息が、会議室の中で響いた。
(で、つい先日)
小池嬢から説明を受けた彼は、しばらくは彼女と一緒に、ExcelシートやWord文書と格闘する日々を過ごしていたが、ついに、小池嬢が職場を去る日がやって来た。
小池嬢の挨拶、木下課長からの花束贈呈などが淡々と終わり、全員がパチパチと拍手をする中で、山上君だけが“戦友”との別れを心の底から嘆き悲しんで、力強く拍手をしていた。
(で、昨日)
「おい、山上君」
と、山上君の憂鬱のそもそもの原因である、木下課長が山上君の席にやってきた。
「はい、なんでしょうか」
「ちょっと、仕事を頼みたいんだが。『A社との接触記録』ってものはあるかい」
「あぁ、それならば営業日報がありますよ」
と、向かいの棚にビッシリ並んだ、何十冊という「営業日報ファイル」を指し示した。
「おお、そうか。それならば、過去一年間分で良いので、A社と接触した日の一覧を作成しておいてくれないか」
「えっ、過去一年間分ですか。それを、あの営業日報の山の中から探すんですか」
「なんだ。こういったことは、小池さんなら文句も言わずに、すぐやってくれたぞ。今日中とは言わんが、できるだけ早く作成しておいてくれ。いいな」
「(がっくりした様に)分かりました。でも、明日の記念式典があるので、すぐには」
「あぁ、それならば君は出席しなくて構わん。元々、誰かが留守番をしなければならなかったんだし。では、よろしくな」
と、言うだけ言って、木下課長は去っていき、後には呆然とした山上君が取り残されていた。
(そして、再び現在)
「思えば、あそこで断固として断れば良かったんだよな。って、後の祭りか」
と、ため息混じりに再びパソコンに向かいだした山上君であった。
「駄目だぁ。『過去一年間のA社の接触履歴』なんて、すぐには作成できないよ。営業日報を丹念に見ていかなけりゃならないんだから」
またもや大きなため息を付く山上君の後ろの通路を、総務部の山本部長が大慌てで駆け抜けて行ったのを、彼は全く気づかなかった。
「よーし、やっと読み終わったぞ」
と山上君は意気揚々とパソコンに向かいだした。
彼の机の上には先程まで読んでいた「猿でも分かるAccess入門」という書籍が広げられており、彼は、これを見ながらパソコンを軽快に操作し始め…ようとしたまま硬直してしまっていた。
「うっ、“テーブル”を作成する操作手順は分かったけれど、実際に“顧客テーブル”ってどうすれば良いんだ?」
(元を正せば数週間前)
“記念式典”の後、何やら会社の上の方で“データベース”といった話題が検討されているという噂話が、山上君の耳にも入ってきた。
「“データベース”か。そう言えば、学生時代に“Access”というデータベース・ソフトを触ったことがあったな。そうか、これを使えば、今の作業が効率化できるかもしれないぞ」
X社は全社員のパソコンに“マイクロソフト社製のOffice製品”を入れており、“Word”や“Excel”といったソフトの中に、確か“Access”も入っていたはずだ。
「よーし。Accessなら近くの本屋にでも“入門書”があったはずだから、これを買って勉強してやるぞ」
山上君の頭の中には既に“バラ色の未来”が描かれていた。
(で、再び現在)
「う~ん。Accessを使いこなせば、効率の良い顧客管理ができるのは何となく分かったんだけど、どうすれば良いんだろう。よし、今度はもっと上級なAccessの本を探しに行こう」
負けず嫌いの山上君、早速本屋に向かいだした。
(その数日後)
「だぁ~。駄目だ。難しすぎて僕には無理だぁ」
と机に突っ伏した山本君の傍には「Accessで作る業務システム」という書籍が広げられていた。
「何なんだ、この“VBA”ってのは! 僕はプログラマーじゃ無いんだから、こんなものを使える様になんかなりたくない。入門者用の本じゃ実際のデータベースは作れないし、かといって上級者用の本って言ったら皆プログラマー向けのものばかり。一体どうすれば良いんだろう」
いよいよ頭が煮詰まってしまった山上君は、ふらふらと立ち上がると、休憩室に向かった」
休憩室に入ると、既に先客が居た。
スーツに身を包んだ三十歳代位の女性である。
何か考え事をしているらしく、山上君が入って来たことにも気づかない様子。
(わぁ、きりっとした人だな。こんな人、ウチの会社にいたかな?)と幾分避けるかの様に離れた席に座って、山上君は缶コーヒーを飲み始めた。
(こうなったら、外部の研修講座でも受けに行こうかな。でも、数日間の講座に参加しただけで、Accessが使える様になるんだろうか。それも一般的な話だけされるんだろうから、僕の作りたいデータベースになるとは限らないし。やっぱり、Accessを使い慣れた人に直接マン・ツー・マンで教わるのが一番良いんだけれどなぁ)
と、とりとめない事を考えていると、例の女性の手許の電話が鳴り出した。
「はい、狭山です。あぁ、内山さんですか。例のリポジトリの件は大丈夫です。いきなり巨大なものを作成するのは無理ですので、まずはAccessを使ってチャチャッとリポジトリ・データベースを作って見ますね。えぇ、大丈夫ですよ。Accessならば、すぐにでも作成してみせますって。はい、はい、では失礼します」
聞くとはなしに聞いていた山上君の耳が「Accessを使ってチャチャッと…すぐにでも作成してみせますって」という言葉を的確に捉えた。
「あの~、すみませんが」
と電話を切った彼女に、山上君は語りかけた。
「はい、何でしょうか」
「あ、始めまして。私、X社営業部第二課の山上と言います。実は今のお話しを聞くともなしに聞いていたのですが、Accessを使いこなしていらっしゃるとか」
「あぁ、Accessですか。でも私の場合“自己流”ですし、基本的にVBAと言うプログラミング言語を使用しない様に簡単にシステムを作成しているので“使いこなしている”という程では無いのですが」
「えっ、VBAを使用しないでシステムを作れるんですか?」
「えぇ、“一切使用しない”という訳にはいかない場合もありますが、ほとんど使用しないで作成していますよ」
(これは僕の“救世主”が現れたぞ!)とやや興奮してきた山上君が言った。
「あの、失礼ですけれど、あなたは?」
「あぁ、申し遅れました。私は、こちらに概念DOAを導入するコンサルタントとして、内山と共に貴社のシステム部にお伺いしている、狭山といいます」
「狭山さんですか。あの、突然で申し訳有りませんが、僕にAccessを教えていただくことはできませんか。お願いします! もう僕はどうしたら良いか分からなくて。あなたしか、すがる人がいないんです。お願いします」
自分で言っていてさらに興奮してきたのか、山上君の目がチワワの様にウルウルとしてきて、一直線に狭山さんの目を見つめてきた。
と、ここで再び彼女の電話が鳴り出し、ほっとした様に彼女は電話に出たが、いきなり受話器に向かって大きな声で話し始めた。
「内山さん、何ですか『ここはどこ?』って。えっ、車でこっちに向かっているうちに迷子になったですって! だから!『内山さんは方向音痴なんだから車では来ないで』って言っておいたじゃないですか。もう!会議に間に合わないかも知れませんよ! どうするんです!?」
と、一気にまくし立てた後、ふと傍らを見ると、合いも変わらず山上君のチワワの眼が狭山さんを見つめている。
電話の向こうでは「どうしよう」とこれまた泣きそうな声の内山氏。
「あぁもう! 分かった、分かりました。山上さん、教えますから、上司の方の許可を取って下さい。こちらにお伺いした時にでも時間を割いてお教えします」
と、半ばやけっぱちの狭山さんの言葉に、パッと顔を輝かせて、山上君が休憩室を飛び出して行った。
山上君が出て行った途端、狭山さんは電話にかじりついた。
「内山さん、良く周りを見てください。何が見えますか? ふんふん。分かりました。すぐに行きますから、そこから絶対に動かないで下さい!」
と、電話を切って、狭山さんも休憩室を飛び出した。
(その数分後)
木下課長を前にひとしきりまくし立てた山上君は、泡を飛ばした口をやっと閉じた。
彼の切迫した口調の“懇願”をじっと聞いていた彼は、腕組みした手をやっとはずしてこう言った。
「山上君、君の言わんとすることは良く分かった。よし!この件に関しては、加藤部長とシステム部の佐藤部長に、僕からかけあってこよう」
「ありがとうございます。課長、よろしくお願いします。」
山上君は元気に頭を下げた。
(その一時間後)
「山上君、ちょっとこっちへ来てくれ」
「課長。どうでしたか」
「うん。とりあえず加藤部長と佐藤部長の了解はもらってきたよ」
「あ、ありがとうございます」
「但し、佐藤部長から条件が一つだけ出た」
「えっ、何ですか、それは」
「今回、山上君から申し出があった件は、既に、一課の吉田課長から佐藤部長に相談が持ち込まれていたとのことなんだ。そこで、佐藤部長から『せっかくデータベースを作成するのであれば、営業部全体の視点で考えて下さい』と条件を出された」
「ということは、第一課の誰かと一緒にデータベースを作成するってことですか」
「そう、その通りだ。これには加藤部長も大賛成でね。そこで、今度は吉田課長に話を持って行ったら、あっさり担当者を決めてくれた」
「で、誰なんです? それは。(課長の顔色を見て)ま、まさか…」
「そう、そのまさかの“松本さん”だ」
(うわ~)と思わず頭を抱えてしまった山上君を哀れむ様に、木下課長が声をかけた。
「いや、山上君、そう悲観する話でも無いと思うよ。何しろ、君の同期の中では一番優秀な人なんだから、色々助けてもらえる場合もあるんじゃないか」
「でも、課長。同期の中では一番キツイ人ですよ。助けてもらう前に、彼女にボロクソに言われそうで」
「とは言え、君の言いだした事でもあるんだから、頑張ってくれよ。じゃ、これから客先訪問しなければならないので、後はよろしく」
と、なるべく山上君とは目を合わさない様に、木下課長は席を立った。
残された山上君は、大きなため息をつくと、自分の席に戻って頭を抱えた。
「せっかく、Accessを教えてくれる人を見つけたって言うのに。まったく、ツイテいるんだか、ツイテいないんだか」
もう一度大きなため息をつくと、そこは負けず嫌いな山上君、やっと気持ちの整理がついたのか、再び気合の入った顔を上げた。
「まぁ、松本さんに捕って食われる訳でもないんだから、そう悲観ばかりしていても仕方がないか。よ~し、頑張るぞ!」
いよいよ、山上君の“Access修行”が始まった。